講話集2
学長講話(2)
「地震に想う」1964(昭和39)年6月17日
私は、昨日午後の1時に、獨協大学の募金のために丸の内の大きなビルの9階におったんです。そのときにもう非常に揺れたんですね。私は、こんなに大きなビルの9階にいてこんなに揺れるんでは、一体日本の地震国にあんな大きなビルが続々とできるがこれでいいものかなと秘かに思っていたんです。そうしたら、聞くところによると、高ければ高いほどいいんだという話で安心したわけですが、きょうは、幾らか付録的にですね、私の地震の経験の話をしようと思う。平生は幾らか思想的な話などをこれからだんだんやっていこうと思うけれども、獨協大学もまだ前途は長いから、1時間ぐらいそういう話をしてもいいだろう。
私は1923年にドイツにいた。ちょうど関東大震災のときで、しかし私はちょうど夏で、9月のことで、スイスに遊びに行っていた。そうしてスイスのチューリヒの郊外にホテル?ベルボーという、そういうペンジィオン(Pension 下宿)があるんです。諸君もヨーロッパを旅行したらば、ぜひスイスに行ってホテル?ベルボ一に行ったらば、かつて学長が、自分はホテル?ベルボーで大震災の報知を聞いたということをひとつ思い出してもらいたいと思う。ちょうどその日は日曜日で、日曜日になるとホテルにおるものは大体もう遊びに出て、日曜日に昼にそこにとどまっているものなどは余りいない。私はそこで昼の食事をしていた。広い食堂に私がいて、(ほかには)ごく少数の人しかいないんです。そうしたらば非常に不思議なことに、ホテルの主人が、私の方へ向かってどしどし歩いてくるんです。何で主人は私に用があるのかなと。そうしたら私に向かって、突然に「ガンツ ヨコハマ ウント ハルプ トウキョウ ジント ツェルシュテェールト(Ganz Yokohama und halb Tokio sind zerstort)」と言った。横浜全部と東京半分は破壊されてしまったと。私はそれを忘れられないんです。私はそのとき一瞬、日本に暴動でも起こったのかと思った。そこで私が「ヴォードゥルヒ(Wodurch)」と聞いたんです。何でだと。「ドゥルヒ エルトゥベーベン (Durch Erdbeben)」、地震だと。
そこで私は、地震によって東京の半分と横浜全部が破壊されてしまったということを聞いて、どうして一体そんなに早く東京の9月1日の地震がここでわかったかと私は聞いたんです。そうしたらば、説明して言うのに、今ロンドンヘ東京から通知があった。電報が来たと。ロンドンからチューリヒのまちへ来たと。ただいま来たばかりだと。ところでチューリヒのまちの者が、ホテル?ベルボーに日本人がいるということを知っていて、あの日本人に知らせてやれという電話が今来たばかりだと。私はそのときに自分の祖国の非常な困難を思うと同時に、スイス人の非常な親切を考えたんですね。留学国がドイツだからして、とにかくドイツヘ帰らなければいけないと思って、その翌日、私は朝早く汽車に乗って、チューリヒから、ドイツのハイデルベルクに留学していたんですが、ハイデルベルクヘ帰ろうと思った。ところが、ドイツではそのときちょうど汽車の値上げがあって、値上げがあっても3日間はもとの切符が使えるんです。9月2日の朝、私がチューリヒで汽車に乗ったところが、もとの古い切符で、安い切符で乗ろうという連中がいっぱいであったんです。それで、さすがのドイツでも、私は一等の切符を持っていたが、一等も二等もないんです。みんなどんどん一等車へ押しかけてくる。で、私は隅の方で小さくなって座っていた。小さい体を一層小さくして、そして隅の方に座っていた。
そうしたらそこへ上品な夫婦の方が入ってきて、私に向かって、きょうの新聞を見ましたかと言った。まだです。それじゃこれごらんなさいと。フランクフルター ツァイトゥンク(Frankfurter Zeitung)という、あの辺では一番よい新聞ですが、そのフランクフルター ツアイトゥンクを私に出してくれた。私がそれをとって見ますと、大きく日本が地震によってつぶされちゃったと、そういう記事が一面に大きく出ているんです。それをちょっと読むというと、私邸で大臣(宅)がつぶされちゃったと。それから江ノ島が沈んじゃって、鎌倉でもって宮様が亡くなったというような記事で、惨たんたる記事であった。それで日本は、恐らくこのためにもう立ち上がることはできないだろうというそういう記事なんです。私はそれを読んで、諸君は若いから想像力を働かせてみたらわかるでしょうけれども、外国へ行って、たった一人でいて自分の国がつぶれたかもしれないという、そういう大きな記事を読んだときの気持ちですね。私はそれを読んで、もう万事休すと思ったです。
そこで、その婦人に向かって「ダンケ(Danke)!」と言って返したんです。何事も私は言わなかった。そうしたらその婦人は私に向かって、あなたのおうちはどこだと。私は鎌倉だと。鎌倉で皇女が亡くなるくらいだから私のうちなどは当然だめだと、こう私は思った。私は鎌倉の小町というので、諸君知っている人があるかもしれないけれども、それは離宮にすぐ近いんです。そこに私の家族はみんないるんですから、これはだめだと思った。そうしたところがその婦人が、それは40から50くらいの教育のある婦人です。座れないんで立っているんです、その人たちは。私は座っていた。そのときにその婦人が私に向かって、あなた、そう悲観することはないと。生きてさえいれば、またどうでもなると。現に自分はアルザス=ロレーヌのものだ。自分のうちは非常に立派なうちで、家の角にシラー(Friedrich von Schiller, 1759-1805)の像がついていたから、自分のうちの前の通りはシラーシュトラーセ(Schiller Strase シラー通り)と言っていた。部屋にはみんなランニングウォーター(running water 水道)がついていると。そういう立派なうちに自分は住んでいた。自分のお父さんはシュトラスブルクの大学の教授で、自分は娘のときにお父さんに連れられてイタリアを旅行したり、そういう非常にいい生活を自分はしていたものだ。それが、アルザス=ロレーヌがフランスヘ取られて、まだできたばかりの